干支九星術のお話

望月治先生の広められた干支九星のあれこれを、沙門慶仁がお話しいたします。干支九星術 沙門室(月恩会)参照のこと。

夜中の鑑定

 夜中は基本的に寝ていますので、鑑定はできません。
 しかし今はメールがありますので、送り手はいつでも送れます。
 受け取り側も、同時に受け取れはしますが、眼にするのは朝になってからでしょう。
 そうすると、どの時間でもって鑑定盤を立てるかということになります。
 いろいろなご意見があるとは思いますが、どの時間で立てても同じ結論になります。
 ですから、自分は、送られた時間にさかのぼってたてます。
 そうしたとしても、同じ結論になります。
 しかしながら、仮に夜中に起きていたとしても、いろいろな理由を考えると、鑑定盤は夜中には立てません。

気学という名前の意味

 干支九星もそうですが、方位を使うことがあります。
 それは、物質を求めるとうい形をとったとしても、本来は物質ではないものを求めにいくものです。
 それを「気」と呼ぶことがあります。
 おそらくそういうこともあって、気学という名前にもなったものと想像されます。
 では気だけでいいかとうとそうではなく、物質的なこと、たとえばお金を求めるということもあります。
 目に見えない、例えば昇進というようなこともあります。
 どちらにしても気が元であり、それが現実の世界へ影響するのであり、その人には何かしらか変化がもたらされるのです。

いもあらい会

 昔、淘宮が流行してた時代に、いもあらい会というのがあったと聞いたことがあります。
 それぞれの個性を孕み月から計算して出して、そして皆で話し合いをして、それぞれの長所を伸ばして、欠点を削っていくという会だったそうです。
 ちょうど泥のついた芋を洗うように、性格を修正していくものです。
 嫁入り前の娘さんにも必要だった、というようなこともお聞きしました。
 現在、いもあらい会があるかどうかは知りません。
 しかし私たちにとっては、鑑定こそがそれに相当するのであり、厳しい、しかし開運には絶対に必要な過程、イベントなのです。

質問を受け付けない先生

 九星の先生の中には、生徒さんの質問を受け付けない先生もいるということです。
 それはそれぞれの方針ですから、こちらで何も言うことはありませんが、実はこの質問を受けることには、非常にいい面があります。
 それはまず、生徒さんがどれだけ理解しているのかわかるという点です。
 また、どこがわからないのか、どこが説明の仕方が悪かったのかを反省することもできます。
 またこの質問は、鑑定中止ですので知識や知識の集積によるのものに価値はありません。
 どれだけ自由な発想のできるのか、にかかっています。
 そういう人たちと出会うのが楽しみです。

イメージを生み出す

 盤の説明をさせていただくときに、新し方位の使い方などの質問を受けることがあります。
 そういう用法が正しいかどうかは、先生より教えていただいておりません。
 そのために、イメージを使った、果たしてどうなのかの可能性を探します。
 その内容も、すぐに判断できるためには、前もってこんな話はないか、と頭の中でいろいろと考えておく必要があります。
 私たちは、教えられたことだけれなく、新しい可能性も必要であり、そのためには、方位のことなどを考えて使えるようにしておかないといけません。
 秘伝なんてありません。あるのは、実績に基づいたシンプルな考え方だと思います。

どこまで決定されているか

 誕生日の星をもって、相当なことまでわかります。
 それでは人生の最後である死亡の時期はどうでしょうか。
 人生の波を見て参りますと、この時期は幸運が来る、この時期はよくない、ということがわかります。
 病気の発病なども、その悪い時期に当たるでしょう。
 では、かといって、死亡する時期が厳密にわかるというのではありません。あくまでも可能性です。
 その理由としては、生まれた時間を参照していないということもあるでしょうが、それよりも、後天的な要素が大きいように思います。
 誕生が不思議であるように、死亡も不思議な、何らかの要素が加わるように思えてなりません。

捨てる覚悟

 干支九星は、それだけで優れた占法であり、知命法なのですが、また別個にいろいろな勉強をしなくてはなりません。
 例えば家相です。これは干支九星も必要ですが、基本的な部分は別に勉強が必要です。
 その他、いろいろな分野で必要な基礎知識があります。
 ただし、その基礎知識がすべて必要かというと、そうでもありません。
 その理由の一つが、中国古典の場合、日本の風土に合わないというのがあります。
 どんなに評判がよくても、使えないと思われるものはあります。
 私たちは、学ぶとどんなことも使いたくなりますが、実は捨てる方の力が必要であり、それを繰り返さないと、本来学ぶべきことがらも、深く理解できないようです。