干支九星術のお話

望月治先生の広められた干支九星のあれこれを、沙門慶仁がお話しいたします。干支九星術 沙門室(月恩会)参照のこと。

記録をつける

 鑑定をしたいとか、鑑定士になりたいと考えていない人であっても、この学問は面白いです。
 何事かが発生するのは、偶然で起こったことではないのです。
 インドでもインドラの網といって、すべての事柄は関連して起きていて、偶然に起こったことはないという思想があります。
 それを解明する方法の一つが、干支九星学です。
 そのためには、何事かが起こったときに、何日の何時何分かを記録しておくといいです。
 そして暦を開いて、干支九星盤を作成して、どうしてそうなったかを考えるのです。
 確かに最初、ある程度の視点は教えてもらう必要はあります。
 わからなければ、先輩に聞けば答えてくれるでしょう。
 その積み重ねをしていくと、世の中の事柄がわかるようになります。
 そして鑑定にも結び付いていきます。

天災の予測

 今年は年初から地震があり、大変な年として始まりました。
 それにしても思うのが、我々が仮に地震の予測ができたとして、それをどうしたらいいのかという問題があります。
 公表して外れましたでは、占術の価値を下げることになります。
 当然、次回からは信じてくれる人がいなくなります。
 また世間を惑わすことになります。
 親しい人ならば許してくれるということから、親しい人にだけ話をするということもあるでしょう。
 ですが本当に可能ならば、地震が起きないようにすることです。
 先生も地震に関しては、相当に配慮されておりまして、地震をなくす努力をされておりました。
 本当の易者は、そうあるべきだと信じます。

一番確実な開運法

 開運をするには、はやり宗教が早いです。
 宗教といっても、新興宗教ではなくて、今まであった既成の仏教と神社神道とを意味します。
 要するに、どうにかして突破しようとする気持ちと、それに感応していただけるものがあるかどうかです。
 大概の人は、信じなかったり、途中で挫折してしまう場合が多いのですが、ひたすら努力しますと道が開けます。
 いろいろと拝見しておりますと、既にある伝承の中で、開運方法は埋もれています。
 あとは工夫をすることと、不平を言わないことです。
 神仏を信じる純粋な心が必要なことは、言うまでもありません。

最初に戻る

 干支九星の鑑定にしても、考え方にしても、法則通りに解明するのは、そう難しいことではありません。
 実際にやってみれば、多くの場合には答えが出てきます。
 しかしながら難しかったり、込み入ったりしますと、答えを出すのが難しくなってきます。
 そこをどう乗り越えるかが、一つの目安です。
 これは先人たちが、自分の腕を磨き、新しい知見を作ってきた道すじでもあるのでしょう。
 そのためには、最初に戻る必要があるのです。
 そしてなぜかを考え工夫しますと、自然と鑑定力が付いてきます。
 秘伝を聞いただけで実力が付くと思っている人は、干支九星の習得は無理です。
 すぐお金に変えようと思う人は、まして無理です。

余計なこと

 吉になるには努力がいりますが、災いになるのは簡単です。
 亡くなった方の骨を少し分けて欲しいともらい、それを供養している人がいます。
 外国の人なら、まあ考えられないではないですが、日本の中ですぐに墓参りに行ける距離でありつつそういうことをするとよくありません。
 本当に余計なことをして、運気を下げているようなものです。
 このようにタブーが決められているのは、神事はもとより仏事が多いです。
 それが正式な寺院の見解であればいいですが、僧侶の思いつきのようなことばに左右されることもあります。
 いいかどうかわからない時に、余計なことはすべきではありません。
 わからないならば、大体伝統にのっとってなされるべきです。

同盤の月

 今月は九星と十二支が同じ盤になっています。
 九星では3碧ですので、今月は世間全体が3碧の影響を受けます。
 ここで事象の取り方が出てくるわけですが、3碧の事象篇を見れば、世間の九分の一がそうですので、たくさんの事柄があるわけです。
 とはいえ、基本的な意味である、若者とか、元気とかいう意味や、内容がない、進んでいくとかいう意味はすべての基本にあります。
 それを踏まえた上での事象ですので、そう間違うことはないはずです。
 他方、十二支では辰になります。
 辰の連想から龍を考えますので、龍に関する社寺にお参りされる方も多いでしょう。
 それもまた結構ですが、では龍の事象は九星では何でしょう。
 などいろいろと話は進むものですが、同盤であることは大きな作用を生みますので、必ずその反動が来るものです。
 そこが注意点になります。

肉親の争い

 親子や夫婦、親戚などの間で、争いをしていることを見ることがあります。
 それは多くの場合、お金に関係することです。
 しかしながらお金に関係なく、最初から関係が悪かった人というのもあります。
 それは、運命としか言えないような関係の人たちです。
 そういう人と肉親となって、様々な苦労をするわけです。
 それはなぜなのかといえば、何かの因縁によるとしか言えません。
 これは宗教の部分に属します。
 易だけを扱う者は、そこから離れて、現在目の前にあることに対処するしかありません。
 そして当事者たちは、それこそ自分の修行として対処していくわけです。
 易が宗教と近しいのは、こういう箇所からも言えます。